2012年02月25日
行き道は いずこの里の 土まんじゅう
今から5~6年前。
沖縄で職業的霊能者のことや、シャーマニズムを研究している時にお世話になった、「いなふくクリニック」の稲福薫医師は口癖のように、「僕はね、その辺で“野垂れ死ぬ”のが理想なんだ」とおっしゃっていました。
それには当時の私も全くの同感で、野たれ死んだ時に身元が分からないのは人様に迷惑をかけるからと、稲福Dr.は、首からペット用の迷子札を常にぶら下げていました。
“野たれ死ぬ” と聞くと、
幼い頃、墓参りに行くと、墓標と墓標の間に、こんもりと盛り上がった場所があったことを思い出します。
誰に教わらなくても、「新しい仏さん」とわかりました。
近所に住んでいたあの木こりのおじいちゃんが今、
土に還っていってる。
淋しいとか、こわいとか思う気持ちより、
たんたんと、それに関わる行事を見送っていたような記憶があります。
私は無宗教と言ってよいほど、神や仏に帰依する信仰心がないのだけれど、
回峰行の師であった故・箱崎文応師が詠まれた句が、この頃さかんに頭のなかを駆け巡っています。
『行き道は いずこの里の 土まんじゅう』
修行中は、どこで死んでもよいように覚悟しておきなさいというような意味でしょう。
今まさに、
「死」の淵が見え隠れしているんだろう友を思い、
あなたも行者ならば、吹いてくる風に逆らわず、
そのまま心地よくのっかっていっていいんだよ って言ってあげたい。
“生”に執着があったなら、またすぐに輪廻転生しますから。
安心して今、あの世とこの世を散歩していてください。
仏さまに「修行が足りん!」と言われたら、また続きのこの世で人間やればいいし、
もし召されることができたならば、今生はそれで完結しましたよ、ご苦労さんということでしょうから。
今、
私の心のなかに
不思議と不安や淋しさがないのは、
あなたからの最大の贈りもののような気がしています。
Posted by やまさき あおい at 00:33│Comments(0)
│自己実現
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