2024年11月02日
多重介護のリアルその15 父亡き後の母
父は今年夏の初めに95歳で亡くなり、
母は先日91歳になりました。
最近、母に変化がありました。
それはこの6年間、要介護2だったのが
父が亡くなってからの認定調査で介護度が下がり
要介護1になりました。
6年も続いていた介護度が
父が亡くなり、90歳過ぎて下がるって
どういうこと?

シェー! って言いたいのはこっちです(◎_◎;)
まぁ・・・・・
めでたいことではありますが。。。
【過去の11月3日は何してた?】
http://self.ikora.tv/y1103
2024年10月26日
多重介護のリアルその14 ~父の夢~
買い物があってドラッグストアに行くと
今でも
「ついでにオムツ買っとかないと」とか
「トロミ剤が切れる頃か?」
とか思い出して
売り場へ足を向けようとして
「あ、もうこの世にいないんだ」と思う。
父が亡くなって3ヵ月以上もたつのに。

亡くなる直前に父がはいていたジャージを身に着けて
日課の山登り。
いっしょに登る
いっしょに季節を感じる
父と一緒に山に登ったのは中学の時が最後。
山にヒノキの苗を植えるため。
「この木はおまえの子が切って生活に充てる木や、
そやからおまえも植えとけ。」
って言ってた。
今では山や畑を粗末にするご時世になり
山のどの辺りにその木を植えられたかもかもわからず、
わかったとして、
木を切ったとしても
持ち出すための費用は、多分材木代より高いでしょう。
しかも私に子はいないし。
なかなかね・・・・・
予定通りにはいかんもんやね、お父さん。
あなたがはいていたジャージ、
40㌔の私にちょうど良いなんて
随分と細く
小さく
なっていたんやね。
2024年08月07日
多重介護のリアルその13 火葬式
8月はお盆の月だからということもないのですが、
父の月命日も終わったので、
これを読んでくれている誰かの参考に
火葬式のことを書きます。
実家は空き家バンクに出す前に仏壇の閉眼供養をして閉じ、
将来、お墓守りをする人がいなくなるので2年前には墓じまいもしています。
なので遺骨は火葬の後、拾ってきません。
15年前から書いている私たち夫婦のエンディングノートにも
「私の遺骨は火葬場から持ち出さない」と書いてあります。(^O^)
さて、その火葬式の費用についてです。
火葬式は直葬とも言われるらしいですが
父の場合は35万円でした。
そのうち6万円は火葬場へお渡しする費用です。
この費用はその火葬場のある市民なら1万円だったところ、
ウチは市民外なので6万円、なんと6倍です。
火葬場がない町は仕方ないのです。
あとの29万円の内訳は
遺体安置や簡易なお葬式をするための場所の提供費用と
棺桶とお花代、そしてエンゼルメイクの費用などです。
ちなみに霊柩車もリンカーンから日本車のバンタイプまで色々あって費用がかなり違ってきます。
父は多分生まれて初めてベンツ車に乗せてもらいました。
それでもお安くついたのは、
母が40年前にベ〇コという互助会に積み立てをしていたからです。
でも、冷静になって考えると
40年前なら郵便局の定額貯金が10年で倍近くになっていた時代なので
当時から今まで29万円を運用していたら
それ相応の金額になってたよなー
って不届きなことを考えもしました。
お坊様もお付き合いがないので呼ばず、
母と夫と私で般若心経を唱えました。
母はこの日のためにソラで唱えられるようになっていました。
お棺の中に入れた父の好物の大納言入り玄米ご飯。
流動食になってから、何年も食べられなかったね。

2024年07月07日
多重介護のリアルその12 父、光の世界へかえりました
やっと看取りをしていただける介護医療院に父が入所でき、
一切の薬も点滴も止めると
あろうことか元気を取り戻したことは前述の通り。
さぁ、それから。
元気になってまた色々な希望を口にし始め
「かえりたい」と繰り返す。
片道4時間半の移動がもう難しいし
家がないことも知っているから
私に「田舎でこんなとこ(施設)を探せ」と言ったり
「お母ちゃんに来てもらえ」と言ったり。。。
父の頭の中では
元気に介助してくれていた母がいるんだな。
現実は母は自分ひとりのこともできないのに。
父のお世話に行く度にそんなことを言うので
私も頭を悩ませる・・・
夜も昼もどうしたものかと考えた。
えーい、もう!!
この際、母が入居できた施設の隣の特養に
半日でも早く入所させて欲しいと頼み込んでみよう!
ということで行動し、
「もう転院等はないです」と言われていた介護医療院から移し、
父を母と同じ建物内の特養に入居することができました。
入所翌日に、面会の制限がゆるくなった特養で
母も時間を気にせず父のそばで一緒に過ごしました。
その翌日、
父の容態が急変し亡くなりました。
母ともゆっくり過ごせたし
長年取り込んできた薬を排毒して
借りものの体を綺麗にして、お返ししたかったのかもしれないね。
子どもの頃から話すことも笑うことも少なく
関係性の薄い父子関係でしたが
あなたにはあなたの生き方があり、
それを踏襲して幕を下ろしたのだと思います。
父よ、おつかれさまでした。
わたしは何故か
父はまたすぐに生まれ変わって次の人生を始めそうな気がしています。

たくさんの天使がお迎えに

2024年06月06日
多重介護のリアルその11 その後の父と母
父が9種類の薬を全て止めてから、すでに1ヵ月と6日が過ぎました。
病院でチューブに繋がれていた時より頭がハッキリしてきて、
自分で食事をするようになった状況はまだ継続しており、
言葉は分かりにくいけれどもちろん意思疎通はできます。
そのうえ、
薬の多用で起きていた副作用なのか、便秘もしなくなりました。
便秘薬だけでも2種類を服用していたにも関わらず日常的だった便秘が、全ての薬を止めたら便通が改善したということです。
「止めると危険な薬もあり急変を覚悟してください」と医師に言われた時より、今の方がよほど元気というこの事実を、
今、薬漬けになっている家族などを看病している方々は参考にしてください。
父が私に見せてくれている現実は、私に何を教えようとしているのかと思うこの頃です。
一方、母は、
3月から入所していた老健の入所可能期限が迫り、寝ても覚めても施設探しに奔走した結果、20㎞ほど離れたところで入居可能な施設を見つけることができました。
ここなら外出の自由度が高いので、父の見舞いにも行きやすくなります。
2日前に引っ越しを終えホッとする間もなく、
父の施設、母の施設両方に通い、担当者さん等に言われた物や書類を準備したり、洗濯物の入れ替えをしたり、母を迎えに行って父を見舞ったり・・・・・は続きます。

各部屋個室で日当たり抜群、
高額な有料老人ホームより、よほどゴージャスな今回のケアハウス。
実家に住んでいた時から冬場は施設入居を希望した母なので、この10年間で6か所もの施設を経験しましたが、
費用対効果に大きな差がつく業界です。
おそろしいくらい。(/ω\)
2024年05月11日
多重介護のリアルその10 9種類の薬を全部やめてみたら・・・
さて、介護医療院に移ってからの父の様子。
9種類の薬を腕から鼻から口から入れていたけれど、
延命をしない施設に移ってからはそれらを全て止めることができました。
入所前に医師からは、
何十年も飲んでいた薬を一気に止めるので、
急変して早々に亡くなることもあることを聞かされていたので、家族は覚悟をしていました。
で、1日たち、2日たち。。。。。 特に変化なし。
少々の変化は、病院ではいつも眠っていたけれど、
介護医療院に変わってから(つまり薬を全て止めてから)は、
目を開ける時間が長くなっていた。
そのあたりからもう、父が望むものを口から食べてもらおうと思い、ペースト食で口を濡らす程度だったのを刻み食に変えてもらいました。
3日目に担当の看護師さんからわざわざ電話をいただき、
「ご自分で食事をされるようになり、完食されます」と。
ナニ?!
自分でスプーン持って?
しかも完食かよ!(^O^)
翌日病院に行ってみると、
しゃべってる。
しかも方言のわかる私なら聴きとれる。
しかもしかも
何ならニッと笑うまでになってる!!!
じょーだんでしょ! 父よ。

2024年05月03日
多重介護のリアルその9 看取り難民
看取り難民?
そう
死に場所がどこにも見つけられない ということです。
厚生労働省によれば、2030年には約47万人が「死に場所難民」になる可能性があると警告しています。
このところの父の様態と入居していた施設、そして病院の対応を受けて、まさに私自身も実感することとなりました。
看取り難民になるケースは様々あるようですが、
我が家で起きたことはこうです。
施設や病院のそれぞれの立ち位置があるので、この社会では仕方のないことだと理解した上で、今後の予備知識にしていただければ本望との思いで書きます。
特養待ちでやっとこさ入居できた老健での2週間後、
誤嚥性肺炎で熱が出たため、老健では治療ができないので病院へ連れて行って欲しいと電話がありました。
父が誤嚥性肺炎で熱が出るのは常だったため、「明日まで様子をみて、熱が下がらなければ病院へ連れていきます」と答えるも、発熱した入所者を置いておくのは老健の立場的には避けたいことだったようで、老健さんが直接病院へ運ばれ、後は家族さんよろしくとばかりに、私は夜間に入院の手続きに行くことに。
さて、父本人は熱があるといっても自覚はなく、
痛くも痒くも苦しくもないのに入院させられ絶飲・絶食。
たいそうご不満な様子。
点滴は何度も外してしまうので、外せないように太いジッパーのついた足から首元までのツナギの服を着せられ、それが不快で私が行く度に「服脱いでくれ」「薬いらん」「かえる」を繰り返す。
その後、点滴は足から入れることになるも、それさえ外してしまう・・・
さて、医師はどうしたか。
点滴で入れていた薬物を内服薬に変えられ、多分、父は薬でお腹がいっぱい、胃も肝臓も悲鳴をあげてるよ。
絶飲・絶食が終わっても、食べて良いのはペースト食。
95の父としては今さら命を延ばす事より、ご飯や形のあるおかずが食べたい、甘いものを口に含みたい。
そりゃそうだ。
でも病院の立場は患者さんの病気を治すこと。
全部禁止される父。
ようやくペースト食が食べられる日常になったので、病院としてはこれ以上入院させてもらえない。
「退院して老健さんへ帰る手続きをしてください」
私はとるものも採らず手続きが終わったかと思ったら、
「熱がちょっと出てきました」と看護師さん。
すでに老健さんは再入所の準備をしていたにも関わらず、
「お熱が出ているなら下がってからに」と言われ
また入院継続。
そして数日で落ち着いたものの、老健さんがさらに様子見を希望されたか、担当医から介護医療院への転院を勧められました。
つまり、
病院では治療対象ではなくなり、
老健さんでは再発の兆しが常にあるため入所に慎重。
介護医療院もそれ自体が数が少なく入所待ち・・・・・・
私の祖父も祖母も自宅で平穏に亡くなりましたが
もし自宅で看取りをしようとした場合も大きな課題があります。
それまでは施設内の医師などに診ていただいた場合は、看取り時だけ急に在宅医にお願いすることはできず、かといってかかりつけ医がいない場合、死亡診断書が発行できないので警察に届け出ないといけないらしい。
こんな事態です。
父の場合は幸いにも昨日、介護医療院に入れて一息つきました。
この世から解放されるのも一苦労な時代。
これから看取りが必要なご家族などがいらっしゃる友人の皆さん、参考にしていただければ。

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