2015年02月25日
練り梅と大根と緑の野菜たち
この冬は、風邪をひくと続けて2回ひいてるように長い間ぐずぐずし、体力が消耗します。
早めにお手当しようが、仕事を休んで寝ようが、酒やめようが関係なしに長引きます。
よほどデトックスするものがあるんだなぁ。・・・仕方ないね。
週末も予定はキャンセルして寝ていたら、薬の効き目をもつと言われる中本農園の梅が、食べやすい“練り梅”になって届きました!
しかも大量。
ドカーン

そうだよ、この梅を毎日少しずつ食べておけば、冬は風邪予防、夏は熱中症予防にもなるんだった。
明日から職場にもこれを持参して、お湯でのばして飲みましょう。
練り梅を手に入れたい方はコチラ ⇒ http://www.itibangai.com/nakamoto/
一緒に届けていただいた大根は、寒ブリのアラと煮物に。
間引き大根のように小さかったので、縦割りにして煮ると芋のようにほくほくしました。
お口のなかでふにゃっと溶けるようなほうれん草は、生がおいしいかった。
で、・・・・・・
これらをわざわざ持って来てくださったオトコマエの写真を撮るの忘れた。

以上、「ある日のお客様」でした。

2015年02月21日
植松 努さん
夫が「みやざき中央新聞」をとりはじめました。
一般紙は、心がすさむ記事がほとんで読む気がしないのだとか。
うん、確かに。
人間の脳は自分が好まない話題であっても、繰り返されるとそれが記憶に残り、やがてその記憶は「正しい」という解釈に変わることもあるのだとか。
コマーシャルや流行語大賞などはかわいらしいもので、人間が本質的には受け入れがたかったものでも、日々マスコミで繰り返されると、心が無抵抗にそれを受け入れ始める・・・ということは、どうも本当みたいです。
用心しよう。こんな時代だから。
さて、「みやざき中央新聞」さんは人々の心に、もともと兼ね備わっている“善なるもの”にアプローチするような記事ばかりを掲載しています。
昔は大阪にも「いい話の新聞社」っていうのがあったんだよ。
でもバブル期を迎える頃から、人は物質的満足をもっと、もっとと求め、精神的豊かさは置き去りになったのか、この新聞はいつのまにか消えていました。
ふと開いた「みやざき中央新聞」に植松 努さんの写真がありました。
「あ、シンクロした!」
空を飛ぶニワトリさんも

ほんと、いいね~、この人。
みんなでシェアしましょ

植松さんの講演会の様子
http://spotlight-media.jp/article/106300900536746109
2015年02月14日
ピーィーー!♬
本日は土曜でしたが、発達障がい者支援研修のため出勤。
一日座るのは、動きたい盛りのお年頃

帰宅後、いつものようにお風呂のドアを開けっぱなして京都の町をぼーっと見ながらお風呂につかり、
お決まりのストレッチをして、お寿司をつまみながら生原酒をのんだら、9時からもう眠たいのです。
睡魔と格闘中。
まだ寝れない訳は、。。。パン焼き器のパンが焼けていないのよ。
(=_=)
あと12分や・・・・・
ね む た い
(-_-)zzz
焼けたらすぐにパン焼き器から取り出さないと、えらいことになるしなぁ・・・
あしたのお見舞い用のパンやし。
ピーィーー!♬
やった。
焼けた。
取り出して寝よ。
本日はうたたね防止ブログでした。
・・・・・ べつに。
それだけや。
2015年02月09日
生まれ変わったら・・・
今日の京都はこの冬いちばんの寒さでした。
鴨川も雪。
色のない季節。
得意のウソ笑い

こんな日に「全国EM技術交流会関西大会」の会議の招集。
何を思って平日の昼間に?!
年休とった。
EMには語りつくせぬ恩義があるし。
大会当日は同じような思いをもつ方々の代弁者でもあるから、フンドシ?締めなおさなきゃ。

会議が始まる前のひととき。
雪のひと粒ひと粒をながめていたよ。
あなたの笑顔もちらちらと感じた。
後藤健二さん。
今、天使たちに囲まれて、
傷を癒し、至福の時を過ごしていること、
知れてよかった。
こころから安堵しました。
わたしの知らない国々にも、
やがてこの雪が、なにかに姿をかえて現れるなら、
そこに棲んでいる命たちの元気のみなもとになればいいな。
だから
朗らかで、あったかなイメージを雪にたくした。
今の“わたし”の想いが、どんどんと未来へバトンタッチされていくから、
悲しんでばかりはいられない!
こんな寒い季節に花びらを寒風にさらして咲く花たち。
すごいな、あんたら。
何を好き好んで、
こんな寒い季節に咲くねん。
今度生まれ変わったら、違うモノになってもいいんだよ。
2015年02月04日
後藤健二さんの遺志
これはわたしの日記なので、やっぱり書いておこう。
忘れないように。
あんなふうなむごい死に方をする結果になってまで、後藤さんがやろうとしていたことを忘れないために。
目の前の現象やネガティブな感情だけに翻弄されて、肝心なことを置き去りにされないためにも。
自分の息子の遺影を放心状態でながめていただろう母親が、ガラスの上から後藤さんの頭をなでて、「けんちゃん・・・」と言って嗚咽された姿に、子どもの頃の「けんちゃん」が無邪気に遊んでいる様子が想像されて、胸がつぶれそうになりながら一緒に泣くことしかできなかった。
わたしなら、家族にこんなことがあったなら、とても正気ではいられないと思います。
ご家族の悔しさ、苦しさ、辛さをほんの少しでも軽くできる方法があったら教えて欲しいと神さまにお願いしました。
後藤さんが書いたものや話していたことからして、あの場に及んで「自分を助けて欲しい」という気持ちはなく、言わされていた。
ただ、憎悪や不安の感情を与えることになってしまったことや、大きなエネルギーを費やす事件になったことをとても悔やんでおられると感じます。
後藤さんだけではなく、覚悟のあるジャーナリストはみんな命を懸けてやっている行為だと思います。土壇場で命が欲しくなるような性根では、そもそも戦場のようなところには行かないです。
後藤さんがやろうとしていたことは、内戦や国同士の戦いで、傷ついたり殺されたりする子供や女性を救おうとしていたこと、そしてそのことを日本はじめ他国にも伝えなければ、「この戦争はなかったことになる」という思いからです。
もっと根底にあるのは、「人と人が殺し合うような戦争はやめよう!」ということだと思います。
だから、この事件の後に、
日本の首相が述べたような「関連諸国と手をとり、罪をつぐなわせる」とか、昨日、ヨルダンが行い始めた報復と見えるような行為は、後藤さんをあの世でもさらに悲しませることになりませんか。
後藤さんはじめ、伝えられていないだけで世界中にいるだろう同じような死に方をした人々に、
「あなた方のお陰で、世界は平和に向かって歩み始めていますよ」って、わたしが死んだときに、あの世で報告したいです。
ひとりひとり、
いまここで、
平和につながることができると思っています。
それは、何かを一生懸命訴えることじゃなくても、
身近な人への愛を行動で示すこと。
その小さな芽こそが世界平和の芽なんじゃないかな。
いまここで、
平和につながることができると思っています。
それは、何かを一生懸命訴えることじゃなくても、
身近な人への愛を行動で示すこと。
その小さな芽こそが世界平和の芽なんじゃないかな。
違うかな?後藤さん。
あなたが亡くなってからも、わたしの周辺では何ら変わりない日常があります。
こんな大きな事件でありながらも、仕事場ではもちろん、誰しもこの話題を避けたい心情があるのか、わたしはこのことについて人と話すことが今日までありませんでした。
新聞もテレビも、この話題が出ているので、もう見たくないとさえ思うこともあります。
でも、あなたが伝えたかった、地球上の複数の地域で悲惨な現状があることを、こんな形で大きく広く知らされることになりました。
だから今、そのことこそを人々は語り合い、考えていかなければならないのだと痛感するのです。
世界中の人々が、人としてあるべき生き方ができるように、どうか天国から見守っていてください。