2016年09月25日
何かの訳があってのこの人生。
秋は何かと行事の多い時期のようで。
お祭りや運動会を筆頭に、その行事の多くは子どもの頃の記憶しかありません。
私が子どもの頃の小学校の運動会は町をあげての行事で、どこの家も家族総出のようなお祭りでした。
我が家も前日からお弁当を仕込み、いろいろな準備をしていましたが、私にとってはその風景のなかにワクワク感や楽しさという記憶はほとんどありません。
何しろ心配症が高じて、子どもの無邪気な楽しみの芽まで気づかずに摘んでしまうような母親に育てられ、
子どもの私もそれに抵抗できずに、まるで母という裁判官に常に見張られていると勘違いしていたような子供時代でしたから、そりゃもう、長い暗いトンネルに入り込んだような幼少期でした。
このブログにも何度か書いたけれど、保育所に行くとき(5歳くらいかな)、途中にあった橋の上から下を流れる川の流れを見つつ、なにかカナシイというような感覚を常にもっていたことを思い出します。
保育園児の頃でそうだから、小学校の運動会も単純にうれしい!楽しい!という気持ちは少なかったんだと思います。
うれしい気持ちより、母が心配しないように徒歩競争で転ばないようにとか、母が恥ずかしくないふるまいをしないと、というような気持ちが先立ち、自分が喜ぶことは悪だと信じていました。
実際に母には、学校であった楽しいことを報告しようと話し始めても、そんなに笑うなと言われました。
「あしたはどんな辛いことがあるかわからないから」と。
大好きなお母さんが言うからには間違いない。
もうこのあたりから幼いあおいちゃんの心の中に、生きていくことはツライもの ということが刻印されたのです。



来年の春から小学校へ上がる幼稚園児を対象に、小学校のおねえさんやおにいさんからお祝いのお菓子が入った小袋をもらえる、みんな大興奮のかけっこ競争のときです。
スタートラインに立った幼稚園児のあおいちゃんはラッパが鳴っても走り出せず、おおあわてで元気いっぱい、小袋めがけて走るお友だちを見て、心とからだが硬直したようになり、
動けませんでした。
家族のいる場所へ帰っていくと母やみんなが、「どうしたん?お腹でも痛いんか?」と聞きました。
心配されたくないから「おなか痛うない」と言いました。
「ほんならなんや!みんなといっしょに走らなあかんやろ!」と怒られ、わたしもみんなといっしょに元気に走りたかったと思いました。
でも、その時のことは大人に説明しようがありません。
ただ、くやしいのかかなしいのか、ひとりぼっちを感じてポロポロと泣くしかなかったのです。
様々な場面で、そのような言うに言われぬ体験がわたしには長くありました。
今、カウンセリングの場面でクライエントが話す言葉に
「なんでそこでそう思うの?!」とか
「そんな不合理なことで、そこまで悩んでる?!」と感じる人は珍しくありません。
そんなとき、「言うに言えない」とか、話す言葉も浮かばなかった幼少期のこのような体験は、カウンセラーである私を支えてくれます。
理論でわかっていることや心理学として体系づけられたこと以外に、臨床の場で起きる生々しいクライエントの生を、どんなふうに受け止め、理解し、クライエント自身がより良い方向へ一歩を踏み出せるのか、
畑をしながら、そんなことを一日中考えていた日でした。



求職中のクライエントさんが持っていた布バック

ヾ(≧▽≦)ノ
「シュウーカツしてる?」って言い過ぎた?

