2018年06月09日
不妊治療の経験から
今から35年ほど前の、初婚のときのはなし。
子どもが欲しくてたまらなくて、
でもできなくて、
夫婦で話し合い、不妊治療を試みたけれど
それでもできなくて、生理があるたびに泣いて落ち込む。
・・・・・
それでもなお、子どもが諦めきれず、
医師から手を変え品替えですすめられる“新しい”お試し治療を何年も繰り返す。
最後の方の治療は、脳下垂体に刺激を与え、疑似妊娠のからだをつくり、上から下から薬を投与しました。
1回の通院に往復6時間、当時不妊治療は保険がきかず、経済的にも肉体的にも精神的にも尋常ではありませんでした。
いったい何のために結婚をしたのか、
また、なぜ子どもが欲しいのかもわからなくなり、
生きる目的が子どもを生むことこと、そうでないと意味がない・・・・・
などという考えに囚われてしまい、子孫を残せない価値のない自分に嘆き悲しむ日々でした。
この頃から笑えない人になっていたように思います。
ほぼ病気でした。
周囲からも
「もういいよ、止めてもいいんじゃない?」という声も聞こえてこないまま、
これを続ける他は許されないと思い込んでいました。
そのうち
長引く不妊治療の副作用で、ムーンフェイスや肝臓障害、めまいなどのからだの異変だけではなく、精神不安定の極致になり、
医師に告げると、「じゃあ、精神安定剤を数種類追加しましょう。」と。
心身の不調にも関わらず、脅迫的に不妊治療を続けてしまう患者の様子に対して、
目の前の患者の命や健康という観点よりも、
不妊治療専門の医師にしてみれば、「妊娠」という結果が最優先だったのでしょう。
「その病気」だけを診る医学では、よくあることのように思います。
最近、当時の私の様子とそっくりなあなたに出会い、
どうしていいのかわからない、辛くかなしい気持ちが、わたしに乗り移るほどよく理解でき、胸が痛みました。
心もからだも悲鳴をあげているあなたに、
不妊治療の経験者の私であっても、何の慰めの言葉もみつかりません。
ただ、私もその危機的状況を乗り越えたから今があります。
この不妊治療の経験は、私に、西洋医学のみを医療とする現在の医学に疑問をもつきっかけを与えました。
そして気が付けば、いつのまにか「医療を自給する」というテーマで活動を始め、ホリスティックな視野で命を考えるベースができていました。
人生で起きることは、
すべて
必要、必然、ベスト!
意識をしてみると、まったくその通りだと思うことが、その後何度も起こりました。
何かの必要があって、事は、ただ起きているだけ。
そんなふうに思えるようになれたことは、大きな希望となりました。
あなたの頬を涙がとめどなく流れていたのは、
もしかすると、
もうこんな気持ちでいるのは、そろそろやめよう
という決別の涙だったんじゃない?
だから、安易な慰めは言わないよ。
その悲しみや苦しみや孤独のなかだからこそ、
あなた自身がつかみたかった何かが確かにあると思えるから。
さぁ
涙が乾いたら
自分のハートの中に前からあった❝ダイヤモンド❞を磨いてみない?
1日10分でいい、自分がほんとうにやりたかったことをヤル!
自分自身がそれを許可してあげる。
こんなささやかなことが、自分を取り戻す呼び水になります。
自分の中のダイヤモンド

こんなわたしの命を支えてくれる畑の作物たち。
モロッコ豆。 鈴なりで、毎日大収穫。
最近はモロッコ豆にご飯を添えて食べるのが我が家流。
Posted by やまさき あおい at 17:58│Comments(0)
│ひとりごと
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