2015年12月23日
「おおきな木」の愛のカタチ
おととい、ひよちゃんhttps://www.facebook.com/earthkitchen.tamaya?fref=tsと電話していた時に、「おおきな木」という絵本の話が出ていた。
この物語に出てくるりんごの木のように、人間はあそこまで与えっぱなしの人生を送れるのか?と二人で考えた。
とりあえず、
あたしはムリ!!
無理 無理 無理!
でも稀に、“特定の誰か限定”で、
しかも、
“期間限定”でなら、
ちょっとそれに似た気持ちになったことは、過去にあったように思う。
(なんと、“限定”の多いことよ・・・

この本の翻訳者の本田錦一郎さんのあとがきに、ひよちゃんと話したことの答えが一つあったように思った。
「愛とは第一に与えることであって、受けることではない」
~省略~
しかし、「与える」とはなにか。
なにかを断念することか、奪われることか、あるいは喪失することか、いや、そうではないとフロム(「自由からの逃走」の著者)は言う。
「与える」ことは人間の能力の最高の表現なのであり、「与える」という行為においてこそ、人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる、と考える。~省略~
りんごの木が、ただひたすら喜びだけを見出していたことに、読者は注目すべきである。
今の自分には無理でも、このりんごの木のような行いに憧れをもち、りんごの木の気持ちを想像してみた。
そうすると、少年にりんごを全部もぎ取らせた時は残念な気持ちにはならなかったし、家や船をつくるために枝や幹を切らせた時も、「しゃーないな」みたいな気持ちを感じただけやった。
なんでそんな気持ちでおさまったかな?と思ったときに、
りんごの実をつけられたのは自分ひとりの力じゃなかったし、木が大きく育ったには訳があり、家や船になるための人生(木生?)だったんだなと思ったからやと思う。
それどころか、残念とか悔しいとか言うより、どっちかというとポジティブな感情をもった。
「あー、これでやっと役目が果たせたかな」というような。
その木は、どっかの深い森で人間と会うこともなく、ひたすら光合成を繰り返し、動植物たちとだけ遊んで、木生を終えていくようなシナリオじゃなかっただけ。
この木は、この木として生まれた役割を最大限に果たせた安堵感を味わっているように感じたよ。
あ、
こんなん書いてたら、いつもの大きな木に会いに行きたくなった。

秋に歩いた森のなかで見つけた、切り株の上に生えた天使。