2009年09月07日

ジャッジメント

ジャッジ(審判、判定)、  これが結構クセモノでして。

「あの人はやり難い人。」
「・・・は話のわからない人。」
「・・・は神経質。」
などなど、自分に対するジャッジもしますが、
私たちは人に対してもよくこれをやります。

毎日のようにクライエントと対峙していると、
ジャッジをすることが癖のようになっている人には、ある法則性があることに気付きます。


その法則というのはたとえば、
あの人はせっかちな人 と言ったその人が“せっかち”を象徴するようなタイプだったり、
とかいうことです。face02

また、
自分に対してもつ感情は他人にも もってしまうということも、ままあります。

たとえば、
自分が疲れやすいタイプだったりすると、人もそうなんだと思い込み、
「疲れたでしょう・・・」と、なんの抵抗もなく
的を得たねぎらいだと信じ込んで言葉を送ったりします。




でもね

違うんだ。


自分が感じていることは皆もそう感じていると思うのは、
一見思いやりがありそうで、
実は
大きな勘違い・・・な場合があるのです。




それは特に本人にしてみれば、
何の疑いの余地も無い、「当たり前のこと」としている事柄の時に起きますから、
相手が「分からずや」になったり「がんこなヤツ」に仕立て上げられることもあります。




いっぺんこのへんで
たとえば何十年いっしょに暮らしている家族であっても、
その人に対する先入観もなるべくフラットにして、
まるで初めて出会った人のように眺めてみることは、
ちょっと楽しく、
誰にも迷惑をかけない上に結構、有効な“ひとりゲーム”です。




そもそも“自分にとっての当たり前”ってなんなんだろ?
私たちひとりひとりの、ものを判定する基準になっているモノサシって正確なんだろうか?
「良い」「悪い」って、もしかして紙の裏表みたいに、表裏一体になっていて
自分はたまたま
「良」や「表」を演じさせてもらえているだけではないんだろうか?



たまたまの上に安住するだけの人生から
ほんの一歩でも
地に足をつけて歩みたいな。


いつまでも生きつづける訳じゃないから。
命のあるうちに。
















  
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Posted by やまさき あおい at 22:47Comments(0)人心緑化